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2024年6月初旬。
丸の内グローバルタワー45階の役員会議室。
会議室の大型スクリーンには、衝撃的な数字が映し出されていた。
「直近の自然災害による日本企業の経済損失、推定20兆円」
美咲は、緊張した面持ちで説明を続ける。
「さらに重要なのは、これです」
スライドが切り替わる。
「被災企業の約30%が、事業の継続を断念」
会議室に重い空気が流れる。
在席する役員たちの表情が、一様に引き締まった。
「先日の台風対応では、皆様にもご心配をおかけしました」美咲は一礼する。
「幸い、人的被害は最小限に抑えることができました。しかし...」
彼女は一呼吸置いて続けた。
「事業継続という観点では、深刻な課題が浮き彫りになりました」
プロジェクターが投影する資料に、赤い文字が踊る。
「特に」
美咲がポインターで示したのは、停電時の業務継続性に関するグラフだった。
「先日の停電では、重要業務の約60%が完全に停止。残り40%も、著しい機能低下を余儀なくされました」
会議室の窓からは、いつもと変わらない丸の内の街並みが見える。
初夏の陽射しに輝くガラスのファサード。行き交うビジネスマンたち。
その日常の光景の中に、誰もが想像したくない現実が潜んでいた。
「この街で、今この瞬間にも...」
美咲の声が、静かに響く。
「数百の企業が、その存続の危機に直面しているかもしれません」
スクリーンには、倒産統計のグラフが映し出される。
自然災害や予期せぬ事態による経営破綻。
その数は、年々増加傾向にあった。
「しかし」
彼女の声のトーンが変わる。
「適切な準備があれば、私たちはこの危機を乗り越えることができます」
新しいスライドが表示された。
『事業継続計画(BCP)刷新プロジェクト』
その文字に、役員たちの視線が集中する。
「これまでの形式的なBCPではなく、実効性のある計画を」美咲は力強く続けた。
「今回は、具体的な施策と、その実現のためのロードマップをご提案させていただきます」
会議室の空気が、僅かに変化した。
「どうぞ」
社長の静かな声に促され、美咲は本題に入っていく。
「まず、現状の課題を四つの観点から分析しました」
スクリーンに、新しい図が表示される。
「特に重要なのが...」
その時、会議室の照明が突然、ちらついた。
数秒間の異変。
しかし、それは全員に共通の認識をもたらした。
企業の存続を脅かす危機は、いつでも、どこにでも存在するということを。
照明の異常から10分後。
システム運用部から報告が入った。
「瞬間的な電圧低下があったとのことです」田中が説明する。
「幸い、重要システムは無停止電源装置で保護されていました」
会議室の空気が、わずかにほぐれる。
「まさに」美咲は話を続けた。
「今回のような事態への備えこそが、BCPの要となります」
スクリーンには、新たな分析データが映し出された。
『重要業務の特定と影響度分析、そして復旧目標の設定です』
「現在、当社の売上の約65%がデジタル取引に依存しています」
グラフが切り替わる。
「そのうち、約40%が24時間365日の稼働が求められるシステムによって支えられている」
役員たちの間で、小さなざわめきが起きた。
「すなわち」美咲は核心に迫る。
「たった1時間のシステム停止で、推定4億円の機会損失が発生する可能性があります」
会議室の温度が、一気に下がったように感じられた。
「しかし、より深刻なのはこちらです」
次のスライドには、顧客信頼度調査の結果が示されている。
「システム障害や業務停止による信頼性の低下は、単なる一時的な損失に留まりません」
美咲は、一つの数字を指し示した。
「取引先の72%が、『重大な障害が発生した場合、取引先の見直しを検討する』と回答しています」
最前列の営業担当役員が、思わず身を乗り出した。
「具体的に、どのような対策を?」
「はい」
美咲は、準備していた詳細な改善案を提示する。
「特に注目いただきたいのが、このシミュレーション結果です」
画面に、複雑なフローチャートが表示される。
「現状のBCPでは、重要業務の復旧に最短でも72時間。これを、新計画での目標を24時間以内に短縮します」
「コストは?」
財務担当役員が、鋭い視線を投げかける。
「初期投資として約30億円。その後、年間運用費として...」
「莫大な金額だな」
誰かがつぶやいた。
しかし、美咲は冷静に返答する。
「では、お尋ねします」彼女は会議室全体を見回した。
「事業停止による損失、そして最も重要な『信頼』の喪失。そのコストは、いくらになるでしょうか?」
会議室に、深い沈黙が流れた。
その時、社長が静かに口を開いた。
「続けてくれ」
その言葉に、美咲は確かな手応えを感じていた。
翌日、丸の内グローバルタワー42階。
大会議室には、部門長クラスの管理職約50名が集まっていた。
「本日は、新BCPの策定に向けた机上演習を行います」
美咲が説明を始める。
スクリーンには『シナリオベース訓練』の文字。
「まず、こちらのシナリオをご覧ください」
想定:首都直下型地震(M7.3)
発生時刻:平日14時
被害状況:
「各部門10分で初動対応を検討してください。その後、クロスファンクショナルなディスカッションに移ります」
会議室内が、小グループに分かれて動き始める。
しかし。
「これ、システムが完全停止した場合、受発注業務は...」
「顧客データのバックアップは?」
「海外拠点との連絡は?」
「決済システムは?」
次々と浮かび上がる課題に、参加者たちの表情が曇っていく。
「はい、時間です」
美咲が声をかける。
「では、各部門の対応をホワイトボードに...」
その時、予定外の来訪者があった。
「失礼します」
ドアを開けたのは、昨日の役員会議に同席していた営業担当役員の速水常務。
「ちょっと様子を見に来ただけだが...面白い取り組みだね」
常務は、ホワイトボードに書き出された各部門の対応を眺める。
「これは...」
彼の表情が変わった。
「この状況で、これだけの問題が?」
「はい」美咲が説明する。
「特に深刻なのが、部門間の連携です」
ホワイトボードには、部門ごとの対応が色分けして記載されている
そこには、明確な矛盾や重複、そして致命的な抜け漏れが存在していた。
「例えば」美咲がボードを指さす。
「システム部門は24時間以内の復旧を目指していますが、営業部門は48時間後の対応を想定。この時間差で、取引先への影響は...」
「深刻だな」速水常務が頷く。
「しかも、この状況では本来の指揮系統が機能しない」
「その通りです」
美咲は新しい図を示した。
『クリティカルパスと代替手段の分析』
「従来のBCPでは、『誰が』『何を』『どのように』という具体的な行動計画が不明確でした」
会議室の参加者たちが、徐々に核心を理解し始める。
「さらに」美咲は続ける。
「部門間の相互依存性が考慮されていない。例えば...」
その瞬間、予期せぬ出来事が起きた。
会議室のプロジェクターが、突然の異音とともに停止したのだ。
「あ、申し訳ありません」慌てて駆けつけた管理部のスタッフ。
「予備のプロジェクターを...」
「いや」速水常務が制止する。
「これも良い機会だ。プレゼン資料が使えない状況で、どう対応するか」
美咲は一瞬の判断を迫られた。
しかし、彼女の対応は素早かった。
「田中さん、非常用のホワイトボードを」
「承知しました」
次の瞬間、美咲は参加者たちに向き直った。
「皆様、まさにこれが現実の災害時に起こることです」
会議室の空気が、緊張感を帯びる。
「プロジェクターが使えない、パソコンが起動しない、データにアクセスできない...」
彼女は、一枚の紙を取り出した。
「しかし、基本的な対応手順が『頭と体』に入っていれば...」
その時、速水常務が思わず笑みを浮かべた。
彼は確信していた。
この演習が、新しい気づきの始まりになることを。
その日の午後3時。
丸の内グローバルタワーの防災企画部オフィス。
「想定以上の反響でしたね」
田中が、机上演習の記録をまとめながら言う。
「ええ」美咲は窓際に立ったまま、外を見つめていた。
「特に印象的だったのは、営業部の森本部長の発言」
朝の演習の最後で、森本部長が切実な声で語った言葉が蘇る。
『取引先のことを考えると、眠れない夜もある。私たちが止まれば、その影響は連鎖的に広がっていく。それは、単なる取引の問題ではない。社会的な責任の問題なんです』
その言葉は、参加者全員の心に深く刻まれた。
「そうそう」田中が画面から顔を上げる。
「演習後、早速動きがありました」
「どんな?」
「システム部から、バックアップ体制の強化案が」タブレットをスクロールしながら「営業部からは取引先との災害時連携協定の提案が。物流部からは...」
その時、美咲のスマートフォンが鳴った。
「はい、山田です」
『山田さん、速水です』
営業担当役員の声だった。
『すまないが、すぐに25階の会議室に来てもらえないか。重要な取引先が来社している』
「取引先...ですか?」
『ああ。朝の演習の話を聞いて、彼らも同じ課題を抱えているという。サプライチェーン全体でのBCP構築について、具体的な相談がしたいそうだ』
美咲は一瞬、目を見開いた。
これは、予想以上の展開だった。
25階会議室。
大手製造業K社の幹部たちが待っていた。
「サプライチェーンの寸断は、私たちにとって最大のリスクです」
K社の調達担当役員が切り出した。
「貴社のシステムが止まれば、当社の生産ラインも止まる。その影響は、さらに我々の取引先にも...」
窓の外では、夕暮れが近づきつつあった。
高層ビル群に、オレンジ色の陽が差し込んでいる。
しかし、会議室の空気は引き締まっていた。
「実は、当社でも同様の課題を認識していまして」
美咲は、準備していた資料を広げる。
『サプライチェーンレジリエンス強化計画』
「まさに」K社の役員が身を乗り出す。
「我々が求めていたものです」
その瞬間、美咲は確信した。
BCPとは、一企業の問題ではない。
それは、社会全体のレジリエンス(強靭性)に関わる課題なのだと。
「では、具体的な連携案をご説明させていただきます」
美咲が口を開いた時、誰もが同じ思いを抱いていた。
これは、新しい時代の始まりなのだと。
翌日、システム統括部のサーバールーム。
「これが、現在の基幹系システムの構成図です」
システム部の星野課長が、複雑な図面を示す。
「従来のオンプレミスシステムと、クラウドサービスが混在していて...」
美咲は、その複雑さに目を細める。
まるで巨大な迷路のような、システムの依存関係。
「特に課題なのが、この部分です」
星野が指さしたのは、受発注システムのコア部分。
「20年以上前に構築されたレガシーシステム。これが、全体のボトルネックに」
「更新は難しいのでしょうか?」
「技術的には可能です。ただし...」
星野は言葉を選びながら続けた。
「システム停止が許されない。それが最大の壁です」
美咲は、深く考え込んだ。
この課題は、BCPの本質に関わっている。
「星野さん」
「はい?」
「レガシーシステムの更新。これも、BCPの一部として考えてみませんか?」
システム統括部のサーバールーム。
無数のLEDが明滅する中、美咲の提案に星野が目を見開いた。
「BCPの一部として...ですか?」
「はい」美咲はタブレットを取り出す。
「こちらをごみてください」
画面には、新しい考え方のシステム更新計画が表示されている。
『段階的システム移行 with BCP』
「従来の方式では、システムを止めることができない。だからこそ」美咲は力を込めて続けた。
「BCPの枠組みを利用するのです」
星野が食い入るように画面を見つめる。
「つまり...」
「はい。災害時のバックアップシステムとして、新システムを構築」
美咲は説明を続ける。
「平常時は現行システムを使用しながら、新システムをバックアップとして整備。定期的な切り替え訓練を実施することで、段階的に移行を進めていく」
「なるほど」星野の目が輝き始めた。
「それなら、システムを止めることなく...」
「しかも」美咲は続ける。
「災害対策予算として計上できる可能性も」
サーバーの冷却ファンの音が、静かに響いている。
その中で、二人は新しい可能性を見出していた。
「ただし」星野が現実的な懸念を口にする。
「社内の理解を得るのは、簡単ではないかもしれません」
「その通りです」
美咲は深く頷いた。
これまでの経験から、変革には必ず抵抗があることを知っている。
「だからこそ、具体的な数字で説得していきましょう」
彼女は新しいページを開く。
「この数字に、もう一つの要素を加えます」
美咲がグラフを切り替える。
「これは...」
星野の表情が変わった。
「そうです」美咲は静かに言った。
「私たちの責任は、この会社だけにとどまりません」
LEDの明滅が、二人の決意を照らしているかのようだった。
それから2週間後。
役員会議室には、緊張感が漂っていた。
「以上が、新BCPの全体像です」
美咲が、最後のスライドを表示する。
総投資額:50億円
想定効果:
一瞬の沈黙。
しかし、それは長くは続かなかった。
「賛成です」
速水常務が、真っ先に声を上げた。
「私も同意見です」
次々と、賛同の声が上がる。
最後に、社長がゆっくりと立ち上がった。
「山田さん」
「はい」
「君は、BCPを単なる保険として見ていない」社長の声には、確かな手応えが込められていた。
「それは、企業の進化への投資なのだと」
美咲は、黙って頷いた。
「承認しよう」
社長の一言で、全ては決定した。
会議室を出た後、佐藤部長が美咲に近づいてきた。
「よくやった」
「ありがとうございます」美咲は深く息を吐き出した。
「でも、これからが本番です」
「ああ」佐藤部長は窓の外を見やる。
「君の言う通りだ」
丸の内の街には、すでに夜の帳が降り始めていた。
「でも、面白いと思いませんか?」
美咲の言葉に、佐藤部長が振り向く。
「BCPって、結局のところ『未来への約束』なんです」彼女は続けた。
「今を生きる私たちが、明日を生きる誰かに対して交わす約束」
佐藤部長は、静かに微笑んだ。
「さて」美咲は新しいノートを開く。
「明日からの具体的なスケジュールを...」
夜景に浮かぶビル群は、いつもと変わらない日常の顔を見せている。
しかし、その内側では、確かな変化が始まろうとしていた。
第3章 完
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
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1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 |
8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 |
15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 |
22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
29 | 30 | 31 |
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
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1 | 2 | 3 | 4 | |||
5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
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